屋久島六角堂便り~手紙

自然と人が織りなす屋久島の多様性を屋久島六角堂から折々にお伝えします

屋久島丼紀行 第9回-丼はハイブリッド文化の象徴

拝啓

この5年ほどの間にあちこちで飲食店が増えてきた屋久島。地元の方が開くお店はお食事処といった趣の店が多く、移住者が開くお店はエスニックだったり創作料理だったりそれぞれのお店の個性が割とはっきりしています。

そうした中で今回ご紹介するのはGWの頃の「屋久島の人と暮らし-新緑のあふれる島に店芽吹く(http://blogs.yahoo.co.jp/honeycomcabin/13215139.html)でご紹介した『食堂 モッチョム山荘』(http://loco.yahoo.co.jp/place/g-IfRLpiJFlzY/)さんの天丼です。

イメージ 1

海老と鰺と烏賊と南瓜と茄子と大葉の天麩羅。店内に空席はありましたが『モッチョム山荘』という店名に敬意を払い、モッチョム岳の見えるベランダの席で頂きました。

イメージ 2

天麩羅にかぶりつき出汁の沁みたご飯を掻き込みながら、ふと思案。天丼を和食に分類するのはなぜなのか?

『食べる日本史』(樋口清之著、朝日新聞社1996年刊)によれば……

イメージ 3

天婦(天麩)羅は戦国時代の終わりに外国人が日本にもたらした料理。イタリア語・スペイン語・ポルトガル語の「テンポーラ(あるいはテンプーロ)」が語源で、テンポーラとはキリスト教のお祭りの名。宣教師がキリスト昇天にちなんで金曜日は獣や鶏の肉を食べず、魚肉などに小麦粉を付けて油で揚げて食べていたのを見た日本人が「テンポラス料理」と呼んだのが始まりだそうな。

天婦羅の当て字は江戸時代に入ってから。天婦は天女、羅は薄物の衣。空飛ぶ(フライする)天女の羽衣のように上げるのが天婦羅の極意。ぼてっとしていては飛べません。

つまり元々「洋食」だった天婦羅がいつの間にやら「和食」として定着。それで言えば明治維新以降の牛丼だってカツ丼だって、ご飯の上にのせて醤油味の出汁をかければ洋食もすべて「和食」の仲間入り。ならばソースカツ丼は洋食なのか、中華丼も醤油味にすれば和食になるのか、味噌カツ丼は和食ではなく名古屋食か?議論の余地が残ります。

「大和魂」なるものを賛美したり「美しい日本」などと声を張り上げる方もいますが、そもそも日本の文化も日本人もハイブリッド。江戸っ子の元祖は幕府が移ってから今日に至るまで地方出身者の寄せ集まり。京都人もまたしかり。平安京を作った桓武天皇も生母は百済系渡来人の氏族。京都には映画の聖地「太秦映画村」がありますが、太秦は日本書紀の太古より天皇家を支えた秦氏の領地に由来。その元をたどれば秦(シン=古代中国)から朝鮮に逃れて日本にやって来た難民の末裔。

にもかかわらず「自分は純粋な日本人である」かのように、かつて日本が植民地支配したアジアの人々を見下したり拒絶したり敵対したり。おかしなことです。

などと感慨にふけりつつ天丼をたいらげて思ったのは、まだ腹の空虚が満たされていないこと。それで、『モッチョム山荘』さんのお隣の洋食屋『オリオン』さんへ。先ほどの理屈で言えば「洋食屋」さんにも丼があっておかしくないのですがメニューにないのでそれに洋風親子丼ともいえる「オムライス」を注文。ご馳走様でした。

イメージ 4

和洋中にエスニック、自然も人も多様性あふれる島に色とりどりの丼が溢れ、屋久島がインターナショナル丼アイランドになることを願って止みません。

敬具