拝啓
秋深まる六角堂の庭では、蜜を求めて蝶がひらひら。
そして二頭が絡まり合ってつがいのように。
これから産みつけられた卵は越冬するのかしらん?
本州の初夏から秋の花々や果実が同居する10月の庭。
その六角堂の庭先で、
「花より魚」と特別支給のトビウオを食した後、
草をはむニャー。
サラダは食後かい!
と言う訳(かどうかは別)で今回ご案内するのは、
この夏-秋に感銘を受けた生き物=命にまつわる本。
中でも一番わくわく読み進められたのが次の一冊。
『クジラの歌を聴け』
田島木綿子著 山と渓谷社 2023年4月刊行
命の始まり=誕生ではありません。
命の仕込み=生殖行動が始まりです。
その多様性、意外性を図解入りで紹介してくれるのが海洋生物学者の田島氏。
この本に気を惹かれたのは、たまたま目にしたネット記事でのヤギの生殖逸話。
ヤギさんをマスコットにする六角堂なれば読まなあかんやろ、と言う訳でamazonでポチッ。
ヤギはもちろんのこと、ネコ科の生殖器の特徴にも、ヘ~~そうなんか!と。
本の帯にあった『全員、生き残るための工夫がすご過ぎる 素晴らしき繁殖戦略』は誇大広告ではありませんでした。
そして、
生まれた命が必ず迎えるのが死。
その死に様もまた、思いもよらぬ多様性に満ちていることを教えてくれたのが次の二冊。
稲垣栄洋著 草思社文庫
『生き物の死にざま』
『生き物の死にざま はかない命の物語』
最初に読んだのは『・・はかない物語』の方。
これは8月初旬の三連発台風の際、
六角堂の庭を飛び回り、網戸と雨戸の隙間で休息していた「赤とんぼ」の正体を知りたくて調べている最中に見つけたもの。
その書評には次のくだりが。
到着した本の目次を見るだけで切なくなりました。
同時に手に入れた『生き物の死にざま』もまた感銘深く、
生殖と死がセットになっている生き物の切なさを実感。
カゲロウの話を読みつつ思い出したのが、
この夏、六角堂コテージに滞在してくれたかつての教え子が、授業で扱った吉野弘の詩が強く印象に残って、大人になってからも時々思い出すと語ってくれたこと。
I was born
確か 英語を習い始めて間もない頃だ。
或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。
女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
―やっぱり I was born なんだね―
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
― I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね―
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。
父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
―蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね―
僕は父を見た。父は続けた。
―友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣(かげろう)の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは―。
父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
―ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しく ふさいでいた 白い僕の肉体―
死とセットになった性の切なさ。
また、「ウシ」の章で語られた、
人によって育てられた牛のすべての行き先は人の胃袋の現実と、
それならまだしも賞味期限切れ、食べ残しのままごみ処理場への批判に沈黙。
ちょうど同じ時期手に入れた絵本と重なるものがありました。
それは、
『もうじきたべられるぼく』
はせがわゆうじ著 中央公論社 2022年8月刊行
帯の「TikTokで300万回再生された泣ける話」には、ケッと思い、
食べられる子牛がまだら模様の乳牛(ホルスタイン)なのは何でや?
などと引っかかるところはありましたが、
良い絵本でした。
その、まだら模様の違和感を取り除いてくれたのが先の『・・はかない命の物語』でした。
肉牛だけでなく乳牛の男の子も、乳を出せなくなった母親もまた行く先は同じ。
よろしければ、まずはYou Tubeでご鑑賞を。
もうじきたべられるぼく|特設ページ|中央公論新社 (chuko.co.jp)
「食べる=食べられる」をテーマにした次の絵本は、
この数年に読んだ絵本の中で「一番意外で素敵なラスト」の絵本でした。
『きつねのおきゃくさま』
あまんきみこ 文、二俣英五郎 絵 サンリード 1984年刊行
これはちんたらCafeの常連さんから教えて頂いた絵本。
40年前に出版された絵本なので多くの方が読まれたかと思いますが、
私は65歳にして初めて出会いました。
「はずかしそうに わらって しんだ」きつね。
そういう死に方=生き方もあるんや、と至極納得。
雨ニヘコタレ
風ニヘコタレ
雪ニモ夏ノ暑サニモヘコタレ
丈夫ダッタカラダモロウカシ
慾ニマドイ
決意モハンパニ
イツモシカメッツラデタメイキツイテヰル
サフイウモノデ
オワリタクナイ
秋も深まり気温も下がり、
ぼちぼちお店も再開したいと思いつつ、
医者に言われて朝晩巻きつける血圧計。
朝の心拍数は下がり続け、
昼間に眩暈がすると血圧が100を切り……
ご滞在のお客様への対応はこなせても、カフェ再開の自信が湧かず……
明日を憂えぬ接客担当従業員に横目で見下されている気分の日々。
『・・はかない命の物語』の最後に取り上げられた命は……
人間 ヒト以外の生き物はみな、「今」を生きている
せめて何かしら、残せるものがあればと言葉を紡ぐ秋の夜長です。
敬具