屋久島六角堂便り~手紙

自然と人が織りなす屋久島の多様性を屋久島六角堂から折々にお伝えします

BookCafeの散歩道&おみずの島プロジェクト コミューンの過去と未来

拝啓

7月9日現在、梅雨末期の豪雨災害により熊本県を中心に65人が死亡し、1人が心肺停止、16人が行方不明。

豪雨被害 熊本中心に65人死亡 1人心肺停止 16人不明 捜索続く | NHKニュース

東京都は9日、都内で新たに224人が新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表。都内で1日に確認される数としては4月17日の206人を上回る最多。

東京都 新たに224人の感染確認 過去最多 新型コロナ | NHKニュース

直接被害に遭わずとも、今日の暮らし、これから先の暮らしに不安を抱いていらっしゃる方は全国・世界津々浦々に。

政府のお仕着せ、陳腐とさえ思われる「新しい生活習慣」ではなく、一人一人の尊厳が守られる「新しい社会」の創造を願う人々が都会にも田舎にも渦巻いているはずなのですが、選挙では……

 

そんな最中、

とあるきっかけで1970年代の出来事を思い起こそうと本棚を探ったのが、学生時代に購読していた雑誌「思想の科学」のバックナンバー。

思いがけず発掘したのは「主題 共同体に生きて」と表紙に書かれた「思想の科学」No.64 1976年7月号。

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そこには、

山尾三省(1938生-2001没屋久島に移住する前年に寄せた文章も。

1960年代から70年代にかけて、日米安保条約ベトナム戦争に反対する運動やら、公害や薬害、環境破壊に対する抗議運動の中で、既存の産業・社会構造から離れて自然農法や特定の信仰を軸にしたヒッピー共同体が全国各地に誕生。

その中核を担った人物の一人が山尾三省氏。

屋久島の白川(しらこ)山に移住したのは1977年。

その前年、13歳になる長男太郎との確執が赤裸々に描かれていて興味深かったのですが、読み返すまでそんな記事があったことすら忘れておりました。

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また、他にも興味深い記事がいくつも。

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ヤポネシアという言葉に44年前に出会っていたことも覚えておりませんでしたし、

掛塚留吉氏の存在や印象的な「聖堂」の画像も脳味噌に残っておりませんでした。

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大友映男氏の「各地の共同体は、いま ヤポネシアコミューンとマルチメディアセンター」には、十島村諏訪之瀬島に産まれた「バンヤンアシュラマという瞑想とカルマヨガのコミューン(無我利道場)」が、

ヤマハによる諏訪之瀬島開発に対してボイコット運動を行った記述も。

 

そこで思い起こしたのが、

以前このブログでもご案内した、三島村薩摩硫黄島十島村諏訪之瀬島の飛行場と、

屋久島の永田にかつてあった「石蕗舎(つわのや)」の歴史。

それを回顧するブログが「ヤマハリゾート つわのや 今はなき超高級リゾートの栄枯盛衰」

その記事で紹介されている「ほんやさんHP『屋久島青春日記』」には、「石蕗舎」のカレーの記述も。

以下、一部引用させて頂きました。

石蕗舎(つわのや)は、県道から少し入った海の近くにあった。それほど大きな建物ではなかったが、屋久島の果てともいえるこんな場所によくもこんなものをつくったもんだなぁ、という感じがした……

テーブルの向こう側は、一段低い絨毯敷きのスペースになっており、グランドピアノ一台と、ギターが数本見えた。奥にはお酒がならんだショットバーのようなところがあり、大きな窓越しに、海が見えた。

席についてまもなく、カレー一式が運ばれてきた。
一人1500円というので、カレーにしては高いなと思っていたが、さすがにカレーだけではなく、スープやら、サラダやらいろいろとついていた。ふだん、貧しい自炊生活で、面倒くさいときはご飯に醤油をかけただけの食事もめずらしくなかったので、このカレーは、べらぼうにうまかった。ただ、惜しむらくは量が少なく、ただでも早食いの私は、ものも言わずに、3分くらいで平らげてしまった。

【コラム屋久島】
このときのカレーの1500円というのは、当時公務員だった私の給料が6万円弱でしたから、今の感覚では5000円くらいだと思います。
ちなみに、この翌年、友人が屋久島に新婚旅行に来たときに泊まった石蕗舎のスイートルームは、当時で1泊3万円でしたから、今なら10万円というところで、ハンパじゃなく高かったようです。

 

ヤマハリゾート「石蕗舎」さんは1972年開業し、1982年に閉鎖。

ヤマハリゾート - Wikipedia

後に売却され、「つわのや」として営業されていましたが、それも現在閉業のご様子。

屋久島つわのや (TSUWANOYA) - 屋久島町その他/旅館 [食べログ]

どんなカレーだったか、ご存知の方がいらっしゃれば教えて頂きたいものです。

 

閑話休題

思想の科学」に戻りますが、

1970年代に全国各地で発生した「コミューン=共同体」はその多くがやがて衰退、解散していったのですが……

屋久島では、

2000年代に入ってからもそうした過去に直接触れていない20~30代の方も含め、個人で自然農法に取り組んだり、果樹や薬草の栽培をされたり、ヨガや子育てや野外活動でグループ活動をされる移住者が其処此処に。

中には「開かれたコミューン」が形成されていく芽生えも。

それがどんな形で育ち、島の「新しい生活様式」を産み出していくのか興味深いところ。

何かを新たに作るには、古い何かをぶっ壊すことも必要ですが、

同時に過去の事実や歴史に学ぶことも重要かと。

 

1960年代以前の日本にも様々な「共同体生活」の実践はありました。

1905年、西田天香により「修行者が大自然に向かって礼拝、争いの無い生活を実践」する共同体として「一燈園」が京都に創設され、

共同体の子供たちが学ぶ「私立一燈園小・中・高等学校」も今なお存在。

また、

1953年、山岸巳代蔵により、私有財産を否定し農業・牧畜業を基盤とするユートピアをめざす活動体「ヤマギシ会」が組織され、

様々な社会問題を起こしつつも、

現在なお全国最大の農事法人として活動し、日本に32カ所、海外に6カ所にヤマギシ村が存在。

 

こうした個人的な体験を越えた歴史的事実を共有し、

屋久島の自然と歴史と、その可能性を探求しつつ、

若い方々が新たな社会を産み出すお手伝いをできれば幸いです。

敬具

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