屋久島六角堂便り~手紙

自然と人が織りなす屋久島の多様性を屋久島六角堂から折々にお伝えします

一膳の箸が通わす島の幸

拝啓

九月も中旬となり、日が暮れると鈴虫の音が響き渡る屋久島麦生六角堂。季節の変化は自然にとどまらず、島の人の暮らしにも表れています。

屋久島丼紀行 第5回 安房の麻婆丼 」でもご紹介したビッグコミックやビックコミックオリジナルを脇に夕食を食べるのが楽しみだった安房の「萬来軒」さんは売りに出され

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屋久島ラーメンの細道 第4回 「屋久島ラーメン」の条件とは」でもご紹介した宮之浦の王龍(わんろん)さんは廃業され、どうやら違う店に改装中。

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屋久島丼紀行 第15回 丼で寂しさを乗り越えよう」でご紹介した安房の「武田館キッチンハウス」の左手「なつみ庵」さんが昨年11月に閉店され、今年5月に「屋久島カレー事情 第46赤き子の島に生まれし雨後の昼 和洋の狭間に知るカレーの深み」でご紹介した「かたぎりさん」さんが開店して半年も経たぬ内、

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右手の「わが家」さんの店の明かりが灯らぬままに

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「屋久島カレー事情 第38回 春にまた戻る日を待つ渡り鳥 また来ってこいよ南国Amara」でもご紹介した「Amara」さんは、今月末に閉店して離島。

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思い起こせばこの2年間、小瀬田のオムライス屋「ラ・モンステラ」や食堂「愛子亭」、安房のテイクアウトの「島・しまキッチン」、尾之間の食事処「春」や蕎麦屋「手打ちそば屋」、平内の「アイノワレストラン」……今はなきお店の何と多いこと。島での飲食業の難しさを実感せざるを得ません。

その一方、栗生の「PON-PON」、平内の「Na*ga-no な・が・の」、尾之間の「Warung Karang」、春牧の「喜楽里」「安永丸」、安房の「ジャングルキッチン」「日と月と」「あわほ」「NABURA」、椨川の「たぶ川」、宮之浦の「雪苔屋」「やくしま食堂」「レストランパノラマ」、志戸子の「Kiina」、吉田の「吉田ドーナツ」……などなど新しいお店が開店して健闘中。

そしてこの7月には、廃業された小瀬田の「malo」さんの跡にベジカフェ「ひよりや」さんが誕生しました。お店に足を運んだのはもう一ヶ月以上も前のことになりますが、思うところあって本日のご紹介。

店内のあちらこちらに置かれているヤギの置物に親近感を覚えつつ

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今回は「大豆ミートの酢豚風」を頂くことに

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お店の売りの「発酵玄米」もさることながら「おろしキュウリの寒天寄せ」が夏の口には涼し気で、弾力のある大豆製酢豚もどきも楽しくいただき、ご飯もお代わりさせていただきました。

さてここで料理の内容以上に気に留まったのは……

島内の他の二つのお店のお膳と比べると、それが浮かび上がってまいります。

まずは、先日頂いた麦生の洋食カフェ「デイビス」さんの「島のねばねば野菜のグリーンカレーと桜島どりのコンフィ」。

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オクラやゴーヤの風味や食感が楽しく、骨付きの鶏肉の解ける旨み。カモミールのハーブティーも清々しくご馳走様でした。さて、この洋風カフェ「デイビス」さんでは洋食のマナーにのっとって、スプーンとナイフとフォークが丼の左右に縦向けに置かれています。

そして次に、昨日頂いた「ノマド」さんの「ルーローファン:豚の角煮台湾風丼」(ごはんの代わりに水切り永田豆腐を使ったスペシャルまかないバージョン)。

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無理を言って作っていただき感謝。豆腐と肉と野菜それぞれが持つ食感や風味が生かされて、穏かに調和。以前と淹れ方や茶葉の変わったチャイはノマドに似合った滑らかさに。ご馳走様でした。さて、ここで注目したいのはアジアンカフェの「ノマド」さんでは、丼の右側にスプーンとフォークが縦向けに置かれ、その外側(一番最初に手を取る場所)におしぼりが添えられていること。

それに対して和風カフェ「ひよりや」さんでは、箸がお膳の手前に横向けに置かれ、そのまた手前におしぼりが添えられていました。

以前「屋久島ラーメンの細道 第5回 レンゲの位置から見えるもの」で丼に添えられた“レンゲ”の位置に注目したことがありますが、今回は箸とおしぼりの置き方が問題。

日本以外で箸を使う中国や韓国などでは、箸はフォークやナイフと同じように先端を向こう側にして縦置きにするようです。なのになぜ和食では箸を手前に横置きするのか。これには幾つもの解釈がなされていて、結構面白い。

敬虔なキリスト教徒であるならば、食事の前に食事を恵んで下さった神様へ感謝の祈りを捧げます。一方、日本に暮らす多くの人は時に合掌しつつ「いただきます」。ちゃんと伝わるように声に出すことが肝要ですが、いったい誰に?

浅はかな道徳教育では「いただきます」を「作物を作って下さったお百姓さんや料理を作ってくださった方への感謝の気持ちを表す言葉」などと教えがちですが、古来自然との共生を大切にしてきた人々は……

森羅万象、植物や動物(時には鉱物でさえ)を問わず食材となったものすべてに神さんが宿り、そのものの命を自分の命を支えるために絶ったのだと意識すれば、絶たれたもの達の恨み辛み、神さんの怒りを想像するのが自然。食事は空腹や味覚を満たす快楽であると同時に、与えられた恵みへの感謝と奪ったことへの畏れが入り混じった行為だとも言えましょう。

料理された「命」人間に施された神さんのお恵みであると同時に、時には荒ぶる神さんを鎮め、時には守ってくださる感謝を表す人間から神さんへのお供えでもあります。万物に宿る神さんと交わる神聖な場が食事の場

そう考える者にとって、横向きに置かれた箸は、ちょうど鳥居や注連縄のように神さん(聖)と人間(俗)を分かつ境界=結界となります。そしてその手前に置かれたおしぼりは単なる衛生上の道具ではなく、社寺仏閣でお参り前に手を清める手水舎と同じもの。「いただきます」はその結界を解く宣言。

自分の命を支えるための犠牲になった植物や動物の命を“いただきます”

肉を食べないから殺生をしていないというのは、命の概念を狭めてしまうものでしょう。キュウリ一本、大豆一粒であれ自然の中で結ばれた命そのもの。

飢餓や飽食は言うに及ばず、味や盛り付けやヘルシーさ以前に、日々の食事が命を紡ぐものであることを忘れてはならない。多様な自然と多様な人が織りなす屋久島の食事であればなおのこと。それを再認識させてくれた一膳の箸とおしぼりに感謝。

そして、奪い取り血肉となってくれた命に、「ご馳走様でした」。

敬具