拝啓
そこで待っていたのが岩ガキ。
フェリーターミナル近くにある「海鮮市場」には様々な魚介類をその場で刺身や塩焼きにして頂けるコーナーが。
無類の貝好きとしては今が旬の舞鶴(丹後)特産とり貝を頂きたかったのですが、
今年は海の様子がおかしく不漁で水揚げがないと聞き残念無念。
プリプリの岩ガキと大あさりとエビを選択して頂くことに。
大変美味しゅうございました。
屋久島の宮之浦や安房の港にもこうした海鮮市場ができることを願うばかり。
舌もお腹も満ちたところで向かったのが『舞鶴引揚記念館』。
そこで空腹と寒さによる衰弱、病死にさいなまれた人々の姿を再確認することに。
昭和20年(1945年) 第二次世界大戦の敗戦とともに、旧満洲(現・中国東北部)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が取り残され、その内の66万人の引き揚げ者を受け入れたのが舞鶴港。
引揚記念館はそうした、そうした実態を後世に継承し、平和の尊さを広く発信する施設として1988年に開館。
(舞鶴引揚記念館HPより)
引揚者やシベリア抑留者の艱難辛苦を語るボランティアの熱心なガイダンスに耳を傾けつつ思ったのは、
「そもそも、なぜ660万人もの日本人が中国大陸や朝鮮に居たのか⁈それを『国策』の一言で片付けていいのか⁈」ということ。
明治時代の「韓国併合」から昭和の「満州国建国」へと植民地化を進める政府や軍の仕業と、それを応援した多くの日本の庶民がいたという事こそが体験者の伝えるべき、後世の人々が学ぶべきことかと。
【韓国併合条約とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や条約までの流れなど | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト
【満州事変とは】簡単にわかりやすく解説!!原因(きっかけ)や目的・影響など | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイト
「満州国」建国当時、日本経済は世界恐慌のあおりを受け深刻な不況に陥り、とりわけ農村経済を支えていた養蚕業は大打撃を受け、農村の生活困難と労働/人口過剰が政策上の大きな問題であった。
このような情勢の下で、満州への移民送り出しへの関心が高まる。
1936年に「満州農業移民二十ヶ年百万戸送出計画」が閣議決定され国策として推進され、1945年までの10年間に約27万人が移民として満州に渡った。
(「移民国家日本」昭和の100年 | 一般社団法人平和政策研究所 より)
こうした引揚・シベリア抑留の背景にあった事実を学ぶことでこそ、今どうすべきかを判断できるのではと。
前日見た映画『ノー·アザー·ランド』でえぐられたパレスチナの実態、イスラエル政府の政策の下、イスラエル人入植者がパレスチナ人の家を破壊し土地を奪い追い出す姿は、戦前の日本政府と大陸に渡った日本人入植者の姿に重なりました。
昭和29年(1954年)に菊池章子が歌って大流行し、昭和46年(1971年)に二葉百合子がカバーして再ブレークした昭和歌謡「岸壁の母」は舞鶴が舞台。
シベリア抑留から帰還する息子を待って舞鶴港の岸壁に立つ母のように、今も地球のあちこちであ国籍人種民族に関わらず戦場から帰らぬ息子や夫や恋人を待つ人がいる。
その待つ人の中には「万歳三唱」して彼らを送り出した人もいるだろうと。
今、やなせたかし夫妻をモデルにしたNHKの朝ドラ『あんぱん』はちょうどこうした戦時下の戦場と銃後の『正義』を問う場面になっていますが、それらの描写に拒絶反応を示す視聴者も多い様子。
この三十年の学校での平和教育の衰退が日本の未来に影を差していることは間違い無さそうにも。
そんな思いを引き摺りながらもフェリー乗り場のポスターに旅情を誘われつつ、
鹿児島本港から舞鶴港までの走行距離は1,393km。
小樽に着いてからどんな出来事が待っているのかと思いきや、
フェリー船内で思わぬハプニングが。
つづく