屋久島六角堂便り~手紙

自然と人が織りなす屋久島の多様性を屋久島六角堂から折々にお伝えします

流れ着くヤシの実に似て我独り

【六角堂スパイシーブックカフェ・イートハーブからのお知らせ】
 
5月12日()
Open 12:00~売り切れ御免臨時営業
 
定番カレー以外にちょっぴりチキンナスカレーをご用意しての
シンプルカフェメニュー
 

拝啓
 
久し振りに青い空と青い海を見渡せた屋久島麦生六角堂。
本日ご来店下さったお客様から、
六角堂の母屋(イートハーブ)の前にそそり立つ樹に付いて「何と言う松の種類ですか?」というお尋ねを頂きました。
 
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今から10年ほど前、
このこんもりした樹々の内側に入って風に吹かれながら海を眺めて、
この土地を買い、屋久島に移住することを決めました。
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その当時、この木の名前を知りませんでしたが、六角堂を建ててコテージを開業後の二年間、管理人を引き受けてくれていたクマちゃん夫妻が旅先の奄美で同じ木を見付け、「モクマオウ」という名だと伝えてくれました。
「漢字で書けば木魔王かも」などと、盛り上がっていましたが、調べてみれば「木麻黄」(学名はCasuarinaceae)。
森林総合研究所九州支所のHPによれば、モクマオウ科の植物で松とは別種、オーストラリア原産で樹皮は染料になるそうです。
 
奄美や沖縄では野生化しているとのことですが、屋久島ではあまり見かけず珍しがられます。
 
ところが、見えない糸でモクマオウと屋久島はつながっていたことを、今週発見していたのです。
それはこのブログで数回ご紹介してきた林芙美子の『浮雲
主人公幸田ゆき子が昭和18年、日本軍が占領していた仏印(フランス領インドシナ=今のベトナムラオスカンボジア)に渡り、破局へと突き進む元となる富岡と出会う町へと向かう植民道路は「木麻黄の並木道」だったのです。
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「なんや、それだけのことか」とおっしゃるかもしれませんが、縄文杉以前に屋久島を有名にした立役者は何と言っても林芙美子の『浮雲』でしょう。
また林芙美子屋久島取材後の1950年7月『主婦之友』に寄せた屋久島紀行」は全国の主婦に読まれ、それに触発されて島を訪れた観光客も少なからずいたかもしれません。
 
そんな林芙美子の鹿児島旅行の足跡をたどったHP「やまももの部屋-林芙美子の『浮雲』と屋久島行きの波止場」
 
林芙美子や「幸田ゆき子」が島に渡るために乗った貨物客船照國丸の船影が載せられたブログ「定期船ブログ-小型客船28隻組 中川海運 第一照國」などを眺めると
 
林芙美子屋久島を訪れた1950年には、
沖縄どころか奄美大島十島村ですらアメリカの施政権下にある「外国」であり、
屋久島は「日本最南端」だったことを思い知ります。
 
    トカラ列島1952年(昭和27年)2月10日復帰。
 
    奄美群島1953年(昭和28年)12月25日復帰。
 
    小笠原諸島1968年(昭和43年)6月26日復帰。
 
    沖縄県1972年(昭和47年)5月15日復帰。
 
幸田ゆき子が逃避行の末に辿り着き、
命尽きた屋久島は当時の「日本の最果て」だったのです。
 
海風にそよぐモクマオウの葉陰で、そんな日本の歴史と女の一生を思い浮かべてみるのも「BOOK CAFE EAT HERB」にふさわしい過ごし方かもしれません。
 
明日12日木曜日、12時より売り切れ御免の臨時営業
よろしければモクマオウの根方のベンチでおくつろぎください。
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敬具
追伸:林芙美子が1950年4月に発表した「屋久島紀行」は青空文庫の次のページで全文読むことができます。
 
 
六角堂は遠すぎるとおっしゃる御方には、
ご自宅で当時の屋久島を偲んでいただければ幸いです。